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三国祭り体験談 (その壱)
(特別寄稿)

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平成14年旭区祭りの時間 (1/4)

思えば6年前の平成8年。僕の住んでいる旭区が山車(やま)番を担当した年だ。当時、自分は中学2年生。

『山車巡行に携わる生徒の早退を認める』。三国中学校が出した特例である。1時間目の授業が終わるか終わらないかの内に、数人の友達と学校を後にし、喜び勇んで家に帰ったのを覚えている。ちなみに、その年の山車は、「桶狭間の奇襲」だった。

そして今年、平成14年。旭区、6年ぶりの山車番である。

都会で大学生活を送っている僕は、5月17日の上野発急行能登号で福井に帰郷した(後になって、この時の心境が中2のとき祭りのため早退した際に抱いた気持ちと酷似していることに気付くが、まあそんなことは置いておこう)。

5月18日

山車を見に山車小屋に行く(と言っても自宅から歩いてすぐなのだ)。旭区は、山車の担当が6年毎と間隔が長いためか、二つ山車(一つの屋台に二体の人形が乗っている)を出すという伝統を持つ。今回は『義経と弁慶出陣の場』だ。もう既に完成されており(渡り初めが終わったのだから当たり前だが)、あとは本祭りの巡行を待つのみ。実に見事な英姿である。僕の個人的な意見であるが、気に入っているのは弁慶の無骨なアゴヒゲ。

 兄が「旭区の山車写真展」なるものを企画・制作しているようだ。区民の空き倉庫をひとつ借りて、旭区が今まで曳いた山車の、現存している限りの写真からいくつかピックアップしたものを展示し、さらに、武者人形の完成する過程を写真と文章で紹介するというものだ。祭りの臨場感を再現するために、倉庫内に流れるBGMはテープに録音したお囃子。19日から21日まで開催されたこの催しは、結果的に成功だったと思う。小屋に収められた山車を見るため旭区まで足を運んでくれた観光客にとっては、区の長い歴史を知ってもらえる良い機会であったし、区民にとっては、歴史を知ってもらうだけでなく、時代を超えて繋がっている、いってみれば愛区心なるものを想起させるのに一役買ったのではないだろうか。

 多少話がずれるが、このように祭りに対して能動的に参加をすることは、とても意義深いことだと思う。慣例にない企画を練るのもその一つだろう。『頑固とは臆病ということだ((C)鴻上尚史)』。この言葉が胸に響いた。

5月19日

 前祭り。

僕の家族をはじめ、区内の老若男女が、溜まりに溜まった6年分の祭り熱を明日の本祭りに控え臨界点でギリギリに抑えている。中には臨海点を強行突破してしまった青年団の方々もおられるようだ。真っ昼間からビール片手に区内をさまよう姿は、祭りという非日常を演出するのに申し分ない。

ちなみに、青年団の人たちは、武者人形完成時から本祭りまでの間、夕暮れをちょいと過ぎる時間になると、「護衛」の名のもとに山車小屋に集合する。これは、むかし町内同士があまりにも武者人形の出来栄えを競い合いすぎて、中には夜中になって他の町の武者人形を壊しに来る人間が現れたために(なんと血の気の多いことか!)、そういう輩から人形を守るために泊りがけで山車小屋を警備していたという、その名残であるらしい。現在ともなるとそんな輩は現れず、「警備」は「酒盛り」へと姿を変え継承されている。旭区の男衆は、6年ぶりの山車曳きを目前に控え、自分たちの武者人形を肴に酒を酌み交わしながら、士気を高揚させるのである。


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