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(広報みくに404号(平成10年2月1日) みくに龍翔館だより より転載)

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*ここでいう山王社とは三国神社の事です。
Daimon-machi record
  末期にぎやかな祭礼の担い手は、若衆でした。山車の趣向も若衆の発案でした。『大門町記録』によると、天保12年(1841)年には3メートル45センチの「源三位頼政」の人形を大門町が飾っています。その出来栄えについては、次のように記録されています。

 「上出来ニ而、当地一番之出来と申均し候、誠当年外町ニも見事ニ出来候へ共、此丁之義ハ格別宣敷、前代未聞ニて見事ニ御さ候」大変見事で、絶賛されたことがわかります。

 人形の身丈は天保10年(1839)から慶応3年(1867)まで記録されています。平均すると4メートル43センチ程あったことがわかります。

  形制作は、塗師屋新七、あるいは、紺屋武右衛門となっています。

 山車の趣向は、天保10年より2年おきに「忠臣蔵 鷺坂伴内」「源三位頼政」「猪早太」「森蘭丸」「安倍貞任」「文治安房」「和唐内」「井(由)井正雪」「後藤」「多力雄尊」「安倍保成 狐抱救の図」「遊女梅ケ枝祈願の図」「長刀鉾山」が出されています。

 山車屋台を出すようになったのは、それより前の文政7年(1824)に、車人足2人に銀4匁を支出しているので、このころには車屋台が出されていた事がわかります。

  末には、巡廻の折り、藩主などがしばしばご参拝されています。三国神社所蔵の「万延以来御参詣之記」によれば、万延元年4月殿様参詣、文久3年大奥女中御参詣、元治元年5月御老女、御女中参詣同6月御簾中参詣、慶応元年7月宰相(松平春嶽)様御参詣などが記録されています。

 幕末期は、山王社の祭礼を総町あげての一大行事として経営し、町内では町庄屋がその世話と経費の収支を担当し、若衆に作り物の考案制作にあたらせたり、あるいは作り物を職人に依頼したりしていました。最も重要なことは、作り物の出来栄えについてで、見物客の風評を強く意識し、より多くの見物客の来訪を期待し、町内の活況、経済の一層の伸長を願望していた様子が伺えます。

記事の転載については平成10年2月2日編集担当の三国町役場企画財政課より許可を得ています


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